午前中、恩納小学校に行ってきました。
図書室の前には、「石川・宮森小ジェット機事故」の写真が展示されています。
毎年、6月になると、戦争や過去の事故についての展示が行われます。
そして今日、「平和について考える会」が開かれました。
去年の平和集会では、戦争の朗読劇を上演しました。
→去年の平和集会の様子
今年は、豊濱光輝さんのお話を聞きました。
豊濱さんは、「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故を語り継ぐ会」の会長さんです。
できるだけ、お話されたとおりに書きたいと思います。
まず、
「1年生はどこですか~?」と聞かれ、手を挙げる1年生。
全学年に聞いたあと、
「じゃあ、わたしは何歳だと思う?」
子供たちが、ワイワイ楽しそうに答えます。
「この白髪のおじいさんが、小学校3年生のとき、沖縄に戦争がやってきました」
1944年、当時8歳だった豊濱さんは、読谷村から国頭村まで歩いて避難したそうです。
それから、小学校4年生になってからも、ずっと国頭村の森を逃げ回っていた。
どこに敵がいるかわからない。
4年生、きみたちと同い年の頃だね。
いつの間にか会場は静まり返り、じっと話に聞き入っています。
人と人が殺し合う、恐ろしいね・・・、それが戦争だ。
攻めてきたアメリカ兵は55万人、沖縄の人口44万人よりも多かった。
そして、沖縄の4分の1の人達が亡くなった・・・。
学校では、アメリカ兵は鬼だと教えられてきた。
私はすすきの中に逃げて、アメリカ兵に捕まった。
逃げ回って痩せていた私を、アメリカ兵は軽々と持ち上げた。
鬼には、なにがある?そう、ツノがあるね。
アメリカ兵に、ツノはなかった。
アイスクリームやチョコレート、アメを食べさせて、なんとか生かそうとしてくれた。
捕虜となった豊濱さんは、4年生の11月から、宮森小学校に入りました。
そこには、教科書もノートも鉛筆もなく、砂の上に字を書いて勉強したんだよ。
ベニヤ板に、家から持ち寄った、なべ底のすすを塗って、先生の黒板を作った。
それが、戦後の教育の始まりだ。
戦時中は、「死んで帰れ」と学校で教わった。
しかし戦後、先生は二度と教え子を戦場に送らないと誓ったんだ。
豊濱さんはその後、1959年3月まで宮森小学校に勤務しました。
そして1959年6月30日、「宮森小ジェット機事故」を目撃したのです。
「宮森小学校米軍機墜落事故」(wikipedia)
私は、小学校から800メートルの石川中学校で働いていた。
Z機が、煙を吐きながら小学校に飛んでいくのが見えた。
市民たちと一緒に、死に物狂いで学校まで走った。
私が着いたときにはもう、職員室の前に子供が寝かされていた。
子供たちは動かない。
教頭先生は、「どうなっているんだ」と泣きながら走り回っていた。
みんな、Z機が落ちたことを知らず、「戦争が来た」と思った。
死者17人、重軽傷者210人の大事故です。
豊濱さんは、亡くなった子供たちの名前や、亡くなったときの様子を話されました。
そして、1300人の小学生と、親御さん達の生々しい様子も語られました。
お話を聞いている子供たちの中には、小さな悲鳴を上げる子もいました。
豊濱さんは、お話の最後にこうおっしゃいました。
あなたたちのお父さんお母さんがいるね。
そして、そのお父さんとお母さんがいる。
そうやって何千年も、ずーっと命がつながっているんだ。
これから、みなさんも命の伝達をしていかなければ。
決してむやみに、死んではいけません。
平和であるように、命を大切にがんばりましょうね。
お話をそのまま書き残そうと思ったら、長くなりました。
沖縄の終戦記念日、「慰霊の日」は6月23日です。
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